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    <title>日々の気づき、学びの日々。</title>
    <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/</link>
    <description>人生の答えは、私の中にあります。その答えを探るのが、この私の人生を歩む、ということでしょう。人生の答えは、日々、きっと、何度も私に訪れているはずです。それは、気づきや学びという形で。移り行く日々の中で、私が得る気づきや学びをここに記していこうと思います。</description>
    <language>ja</language>
    <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>
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    <itunes:summary>人生の答えは、私の中にあります。 その答えを探るのが、この私の人生を歩む、ということでしょう。 人生の答えは、日々、きっと、何度も私に訪れているはずです。 それは、気づきや学びという形で。 移り行く日々の中で、私が得る気づきや学びをここに記していこうと思います。  </itunes:summary>
    <itunes:keywords>人生,気づき,学び,生活,母親,重さ,子育て,愛,恋,心,安定,仕事,社会,幸運,不運,幸,不幸,有限,無限,運勢,ハードル,成功,失敗,コロナ,物質,豊かさ,シフトチェンジ,精神,戦争,発展,感謝,気配,自然,充足,文化,カルチャー,多種多様,許す,他者,多様性,存在,複雑,国,資源,道,使命,歩,輝,前向き,覚悟,創造,過去,私,縁,宝,発掘,答え,偶然,発展,複数,興味,意味,魂,笑顔,転移,手術,家族,世間,光景,混乱,体,死,経験,自由,許す,感性,白,黒,グレー,変化,アンチエイジング,</itunes:keywords>
    
    <itunes:author>Keiko.U</itunes:author>
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      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521760340.html</link>
      <title>めまいが抜けた！</title>
      <pubDate>Wed, 14 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>最近、私は、めまいに悩まされることがなくなりました。これまで、特に、更年期の頃は、めまいに悩まされていました。更年期を抜けて、体が安定してきたから、めまいも起きなくなってきたのかな、と、まず思います。そして、それ以外の理由としては、自分の中心軸をしっかりと意識できるようになったから、なのではないか、とも感じています。自分の中心軸、とは、私の本質、と言い換えられます。私は、最近、私の本質への関心を持ち、その中身を確認することができました。すると、「それでいいのだ」という安心感が..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
最近、私は、めまいに悩まされることがなくなりました。

これまで、特に、更年期の頃は、めまいに悩まされていました。

更年期を抜けて、体が安定してきたから、めまいも起きなくなってきたのかな、と、まず思います。

そして、それ以外の理由としては、自分の中心軸をしっかりと意識できるようになったから、なのではないか、とも感じています。

自分の中心軸、とは、私の本質、と言い換えられます。

私は、最近、私の本質への関心を持ち、その中身を確認することができました。

すると、「それでいいのだ」という安心感が芽生え、それが、めまいの消滅につながっていったようです。

私の本質　ーーーー　なかなかつかみどころの無いもの、です。

しかし、「私って、こうだ！」という確固たるものが見つかれば、それは、大きな安心を私にもたらします。

そして、それを自分の中心に据えて生きていけば、私を生きていく、という確かな、ぶれない足取りを刻めるでしょう。

それも、私と向き合うことから始まります。

自身と向き合い、私の心と寄り添って、その声を聴いていくことです。

生きている今、私と向き合って、私の本質を探り続けて、やがて、その答えを得られたら、その後は、その本質とともに生きて、やがて、無の世界へ帰っていければよいのでしょう。

潔く無の世界へ帰るためにも、生きている今、私はここにいる、という有の世界で、懸命に生きていくことは、悪くはないと思います。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
最近、私は、めまいに悩まされることがなくなりました。<br /><br />これまで、特に、更年期の頃は、めまいに悩まされていました。<br /><br />更年期を抜けて、体が安定してきたから、めまいも起きなくなってきたのかな、と、まず思います。<br /><br />そして、それ以外の理由としては、自分の中心軸をしっかりと意識できるようになったから、なのではないか、とも感じています。<br /><br />自分の中心軸、とは、私の本質、と言い換えられます。<br /><br />私は、最近、私の本質への関心を持ち、その中身を確認することができました。<br /><br />すると、「それでいいのだ」という安心感が芽生え、それが、めまいの消滅につながっていったようです。<br /><br />私の本質　ーーーー　なかなかつかみどころの無いもの、です。<br /><br />しかし、「私って、こうだ！」という確固たるものが見つかれば、それは、大きな安心を私にもたらします。<br /><br />そして、それを自分の中心に据えて生きていけば、私を生きていく、という確かな、ぶれない足取りを刻めるでしょう。<br /><br />それも、私と向き合うことから始まります。<br /><br />自身と向き合い、私の心と寄り添って、その声を聴いていくことです。<br /><br />生きている今、私と向き合って、私の本質を探り続けて、やがて、その答えを得られたら、その後は、その本質とともに生きて、やがて、無の世界へ帰っていければよいのでしょう。<br /><br />潔く無の世界へ帰るためにも、生きている今、私はここにいる、という有の世界で、懸命に生きていくことは、悪くはないと思います。<a name="more"></a>

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            <category>からだ</category>
      <author>Keiko.U</author>
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                </item>
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      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521720807.html</link>
      <title>新・苦しい時の神頼み</title>
      <pubDate>Mon, 12 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>それが、「苦しい時の神頼み」の新・解釈、です。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
昨日は、奇跡を起こしていくには、現実的なものの見方、とらえ方、と、非現実的な感じ方の、双方が、私の中にあって良い、と書きました。

その例からも、私たちの人生には、いつも何らかの二つの軸が存在している、と、感じます。

その二つの軸の特徴は、相反するもの、ということです。

それらのバランスを図っていくことが、私のこの人生、なのでしょう。

その視点で、人生をとらえると、私自身の力で創造して、生きていくという「自力」と、見えない力に自身をお任せして、生かされる、という「他力」の双方がある、となります。

人生に奇跡を起こしていくには、まず、主体的な生き方の自力が求められます。

しかし、そればかりが強くなると、他力の分量が少なくなり、バランスが乱れます。

すると、「なぜ、ここまでがんばっているのに、私の人生は、好転しないのか」という苦悩が生まれやすくなるでしょう。

それは、奇跡が私に訪れるチャンスを遠ざけてしまうでしょう。

そこに、「あとは、天にお任せしておこう」という、心身の緊張をほぐす、ゆるみ、ゆとりを引き入れることです。

日々、とてもがんばっている私、に、疲れや、苦しみ、つらさを感じたら、それ以上、私をがんばらせないで、無理に結果を求めないで、そこで、一旦、立ち止まって、あとは、私以外の何かにお任せしてみる、という他力を登場させましょう。

それが、「苦しい時の神頼み」の新・解釈、です。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
昨日は、奇跡を起こしていくには、現実的なものの見方、とらえ方、と、非現実的な感じ方の、双方が、私の中にあって良い、と書きました。<br /><br />その例からも、私たちの人生には、いつも何らかの二つの軸が存在している、と、感じます。<br /><br />その二つの軸の特徴は、相反するもの、ということです。<br /><br />それらのバランスを図っていくことが、私のこの人生、なのでしょう。<br /><br />その視点で、人生をとらえると、私自身の力で創造して、生きていくという「自力」と、見えない力に自身をお任せして、生かされる、という「他力」の双方がある、となります。<br /><br />人生に奇跡を起こしていくには、まず、主体的な生き方の自力が求められます。<br /><br />しかし、そればかりが強くなると、他力の分量が少なくなり、バランスが乱れます。<br /><br />すると、「なぜ、ここまでがんばっているのに、私の人生は、好転しないのか」という苦悩が生まれやすくなるでしょう。<br /><br />それは、奇跡が私に訪れるチャンスを遠ざけてしまうでしょう。<br /><br />そこに、「あとは、天にお任せしておこう」という、心身の緊張をほぐす、ゆるみ、ゆとりを引き入れることです。<br /><br />日々、とてもがんばっている私、に、疲れや、苦しみ、つらさを感じたら、それ以上、私をがんばらせないで、無理に結果を求めないで、そこで、一旦、立ち止まって、あとは、私以外の何かにお任せしてみる、という他力を登場させましょう。<br /><br />それが、「苦しい時の神頼み」の新・解釈、です。<a name="more"></a>

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            <category>人生論</category>
      <author>Keiko.U</author>
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                </item>
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      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521720525.html</link>
      <title>奇跡を起こす本来の私</title>
      <pubDate>Sun, 11 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>
現実的なものの見方、とらえ方、と、非現実的な感じ方の、双方が、私の中にあって良いのです。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
私の今の関心は、「奇跡」に向いています。

私たちは、本来、奇跡を起こしていける存在なのではないか、と、今、私は、感じています。

それが、そうではないことが当たり前となってしまった、その原因を探れば、本来のその私たちの姿に戻れるだろうと思うのです。

換言すれば、その原因は、今の私は、本来の私ではなくなってしまったから、と言えそうです。

すると、奇跡が起きることが当たり前となるには、「本来の私」に戻ればよい、となります。

「本来の私」ーーーー　と、聞いて、何を感じるでしょうか？

何をイメージするでしょうか。

その感じること、イメージすることで、心が明るくなる、ちょっとウキウキする、少しでも気持ちが軽くなるのなら、それが、その正解、と言えるでしょう。

そこで、大事なのは、その感じたことを捨てないことです。

たとえ、それが、荒唐無稽であっても、笑えるような突拍子も無いことであったとしても、それをどうぞ捨てないでください。

それを常識で判断しないでください。

判断して、取るに足らないものだとして、破棄しないでください。

きっと、これまで、私たちは、そのような冷酷な判断を自身に向けてしまっていたので、実るはずの努力は泡となり、手に入るはずの奇跡も、生まれることはなかったのでしょう。

しかし、従来からの「バカげた夢など見ないで、現実を見ろ！」、という声は、消えるものではないでしょう。

また、それも、人生には必要な見方ではあります。

しかし、その方へ傾き過ぎては、奇跡は、起きません。

奇跡は、消滅します。

現実的なものの見方、とらえ方、と、非現実的な感じ方の、双方が、私の中にあって良いのです。

これからは、現実的なものの見方を少し減らして、その分、非現実的な感じ方の分量を増やしていくことが、奇跡を手に入れる第一歩となるでしょう。

そして、非現実的な感じ方をする私を、私自身が受け入れ、許すこと、で、奇跡はグッと私に近づいて来るでしょう。

この仮説を、私は、現実化していきたいと思っています。

皆様は、いかがですか？<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
私の今の関心は、「奇跡」に向いています。<br /><br />私たちは、本来、奇跡を起こしていける存在なのではないか、と、今、私は、感じています。<br /><br />それが、そうではないことが当たり前となってしまった、その原因を探れば、本来のその私たちの姿に戻れるだろうと思うのです。<br /><br />換言すれば、その原因は、今の私は、本来の私ではなくなってしまったから、と言えそうです。<br /><br />すると、奇跡が起きることが当たり前となるには、「本来の私」に戻ればよい、となります。<br /><br />「本来の私」ーーーー　と、聞いて、何を感じるでしょうか？<br /><br />何をイメージするでしょうか。<br /><br />その感じること、イメージすることで、心が明るくなる、ちょっとウキウキする、少しでも気持ちが軽くなるのなら、それが、その正解、と言えるでしょう。<br /><br />そこで、大事なのは、その感じたことを捨てないことです。<br /><br />たとえ、それが、荒唐無稽であっても、笑えるような突拍子も無いことであったとしても、それをどうぞ捨てないでください。<br /><br />それを常識で判断しないでください。<br /><br />判断して、取るに足らないものだとして、破棄しないでください。<br /><br />きっと、これまで、私たちは、そのような冷酷な判断を自身に向けてしまっていたので、実るはずの努力は泡となり、手に入るはずの奇跡も、生まれることはなかったのでしょう。<br /><br />しかし、従来からの「バカげた夢など見ないで、現実を見ろ！」、という声は、消えるものではないでしょう。<br /><br />また、それも、人生には必要な見方ではあります。<br /><br />しかし、その方へ傾き過ぎては、奇跡は、起きません。<br /><br />奇跡は、消滅します。<br /><br />現実的なものの見方、とらえ方、と、非現実的な感じ方の、双方が、私の中にあって良いのです。<br /><br />これからは、現実的なものの見方を少し減らして、その分、非現実的な感じ方の分量を増やしていくことが、奇跡を手に入れる第一歩となるでしょう。<br /><br />そして、非現実的な感じ方をする私を、私自身が受け入れ、許すこと、で、奇跡はグッと私に近づいて来るでしょう。<br /><br />この仮説を、私は、現実化していきたいと思っています。<br /><br />皆様は、いかがですか？<a name="more"></a>

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            <category>シフトチェンジ</category>
      <author>Keiko.U</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521699631.html</link>
      <title>私が結ぶ必然の縁</title>
      <pubDate>Sat, 10 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>この世は、「縁」でできている、とも言えるでしょう。私たちの宿命は、一人きりでは生きてはいけない、ということです。多くの他者とともに、私は、この人生を歩んでいきます。すると、そこに「縁」が発生します。その縁に生かされる私たちです。人生の幸福も、縁がカギとなるでしょう。良い縁に恵まれたいと願うのが、人情です。しかし、未来の縁を、今、ここで、私が、意図的に作り出すことはできません。過去に結んだ縁を、今、振り返って、私は、それを「良かったのか、悪かったのか」と判断します。そこで、これ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
この世は、「縁」でできている、とも言えるでしょう。

私たちの宿命は、一人きりでは生きてはいけない、ということです。

多くの他者とともに、私は、この人生を歩んでいきます。

すると、そこに「縁」が発生します。

その縁に生かされる私たちです。

人生の幸福も、縁がカギとなるでしょう。

良い縁に恵まれたいと願うのが、人情です。

しかし、未来の縁を、今、ここで、私が、意図的に作り出すことはできません。

過去に結んだ縁を、今、振り返って、私は、それを「良かったのか、悪かったのか」と判断します。

そこで、これからも結んでいく人々との縁について、私は、それをどのようにとらえていけばよいのか、と問われれば、「縁を作り出すのは、私自身」と感じることでしょう。

偶然、その人と出逢ったように思えても、見えない水面下では、それまでの私の思考、行動が、その縁を引き寄せた、と言えそうです。

自身の思考を大切にして、それに則って行動していく、という正直な生き方を実行していれば、それに見合った縁が、やがて、私に訪れます。

それは、必然の縁、と呼べるものでしょう。

私のこれまでのすべての縁は、必然の縁だった、ということです。

そして、これからの縁も、必然の縁が結ばれていく、となります。

また、私が変化していけば、縁も変化していきます。

縁は、変化していくもの、でもあるでしょう。

縁は、私から結んでいくもの、です。

そう思うと、「縁」という不確かなものにも、信頼を寄せることができそうです。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
この世は、「縁」でできている、とも言えるでしょう。<br /><br />私たちの宿命は、一人きりでは生きてはいけない、ということです。<br /><br />多くの他者とともに、私は、この人生を歩んでいきます。<br /><br />すると、そこに「縁」が発生します。<br /><br />その縁に生かされる私たちです。<br /><br />人生の幸福も、縁がカギとなるでしょう。<br /><br />良い縁に恵まれたいと願うのが、人情です。<br /><br />しかし、未来の縁を、今、ここで、私が、意図的に作り出すことはできません。<br /><br />過去に結んだ縁を、今、振り返って、私は、それを「良かったのか、悪かったのか」と判断します。<br /><br />そこで、これからも結んでいく人々との縁について、私は、それをどのようにとらえていけばよいのか、と問われれば、「縁を作り出すのは、私自身」と感じることでしょう。<br /><br />偶然、その人と出逢ったように思えても、見えない水面下では、それまでの私の思考、行動が、その縁を引き寄せた、と言えそうです。<br /><br />自身の思考を大切にして、それに則って行動していく、という正直な生き方を実行していれば、それに見合った縁が、やがて、私に訪れます。<br /><br />それは、必然の縁、と呼べるものでしょう。<br /><br />私のこれまでのすべての縁は、必然の縁だった、ということです。<br /><br />そして、これからの縁も、必然の縁が結ばれていく、となります。<br /><br />また、私が変化していけば、縁も変化していきます。<br /><br />縁は、変化していくもの、でもあるでしょう。<br /><br />縁は、私から結んでいくもの、です。<br /><br />そう思うと、「縁」という不確かなものにも、信頼を寄せることができそうです。<a name="more"></a>

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            <category>人間関係</category>
      <author>Keiko.U</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521685066.html</link>
      <title>思い立ったら、即行動！</title>
      <pubDate>Fri, 09 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>私は、老い先短いので、「思い立ったら、即行動！」と、自分に言って、そのように動いています。先日も、そのようなことがありました。それは、あるものを「クリックポスト」で送ろうと思い立ちまして、中身を用意し、宛名の印刷まで、その日のうちに済ませておきました。そして、翌日、それら３通を郵便局に持って行ったら（郵便ポストにも投函できますが）、その日、１０月１日から料金が値上げしていた、と聞かされました。私は、その前日の９月３０日に、宛名の印刷を終えていたので、料金は、値上げ前の１８５円..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
私は、老い先短いので、「思い立ったら、即行動！」と、自分に言って、そのように動いています。

先日も、そのようなことがありました。

それは、あるものを「クリックポスト」で送ろうと思い立ちまして、中身を用意し、宛名の印刷まで、その日のうちに済ませておきました。

そして、翌日、それら３通を郵便局に持って行ったら（郵便ポストにも投函できますが）、その日、１０月１日から料金が値上げしていた、と聞かされました。

私は、その前日の９月３０日に、宛名の印刷を終えていたので、料金は、値上げ前の１８５円（１通）の支払いで済んでいました。

それが３通ですので、値上げ前だと合計５５５円だったのが、翌日からは、７２０円（１通２４０円）になっていた、ということです。

その差は、たかが１６５円ですが、もし、それを翌日の１０月１日に印刷していたら、合計で１６５円も上がった金額が請求されて、ならば、前日に印刷しておけばよかった、と、後悔したかもしれません。

その悔しい思いをしなかっただけでも、その日のうちに終わらせておいてよかった、と思いました。

ささいなことですが、思い立ったことを先延ばししないで、即行動！、を、実践してよかったです。

また、５５５円の請求で済んで、それは、ゴーゴーゴー、GO！、GO！、GO！、です。

まるで、私のその「思い立ったら、即行動！」を、「それでいいよ」、「それで進んでいこう！」と、応援してくれているようです。

そう感じると、これから、ますます、フットワーク軽く、動いていけそうです。

もうここまで生きてきました。

人生の３分の２は、終わっています。

ならば、残り３分の１は、とにかく思い立ったら、即行動！、を心がけて、実行していきます。

そして、まだまだ人生の恵みを受け取っていこうと思います。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
私は、老い先短いので、「思い立ったら、即行動！」と、自分に言って、そのように動いています。<br /><br />先日も、そのようなことがありました。<br /><br />それは、あるものを「クリックポスト」で送ろうと思い立ちまして、中身を用意し、宛名の印刷まで、その日のうちに済ませておきました。<br /><br />そして、翌日、それら３通を郵便局に持って行ったら（郵便ポストにも投函できますが）、その日、１０月１日から料金が値上げしていた、と聞かされました。<br /><br />私は、その前日の９月３０日に、宛名の印刷を終えていたので、料金は、値上げ前の１８５円（１通）の支払いで済んでいました。<br /><br />それが３通ですので、値上げ前だと合計５５５円だったのが、翌日からは、７２０円（１通２４０円）になっていた、ということです。<br /><br />その差は、たかが１６５円ですが、もし、それを翌日の１０月１日に印刷していたら、合計で１６５円も上がった金額が請求されて、ならば、前日に印刷しておけばよかった、と、後悔したかもしれません。<br /><br />その悔しい思いをしなかっただけでも、その日のうちに終わらせておいてよかった、と思いました。<br /><br />ささいなことですが、思い立ったことを先延ばししないで、即行動！、を、実践してよかったです。<br /><br />また、５５５円の請求で済んで、それは、ゴーゴーゴー、GO！、GO！、GO！、です。<br /><br />まるで、私のその「思い立ったら、即行動！」を、「それでいいよ」、「それで進んでいこう！」と、応援してくれているようです。<br /><br />そう感じると、これから、ますます、フットワーク軽く、動いていけそうです。<br /><br />もうここまで生きてきました。<br /><br />人生の３分の２は、終わっています。<br /><br />ならば、残り３分の１は、とにかく思い立ったら、即行動！、を心がけて、実行していきます。<br /><br />そして、まだまだ人生の恵みを受け取っていこうと思います。<a name="more"></a>

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            <category>人生論</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521685066</guid>
                </item>
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      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521655669.html</link>
      <title>奇跡は明るさに宿る</title>
      <pubDate>Thu, 08 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>そこに、何度でも、本心で望む幸福は、訪れます。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
私は、今、一つの仮説を大事にしています。

それは、「奇跡」と呼ばれる、そうは簡単に起きない幸福は、実は、本来の私にもどれば、それは、もう奇跡ではなく、当たり前の幸福となり、それを得ることができる、というものです。

つまり、私たちは、本来の私ではないので、人生に、なかなか奇跡は起きない、となります。

そこで、奇跡と仲良くなるには、本来の私にもどる、ということが求められるでしょう。

そのための一つとして、私は、「執着」という言葉を挙げます。

悲壮感が漂うような、暗く思い詰めてしまうような、重い執着は、その先に期待している願望を、私にもたらすことはありません。

その執着は、奇跡を、絶対と言ってよいほど、私に寄せ付けません。

暗く、重い、執着に、自身が囲まれていては、人生に、幸福は、訪れないのです。

それは、本来の私の姿、ではありません。

私は、ここに、「私を生きる」ために、生まれてきたのですから。

私は、ここに生まれて、「私」を実感し、「私」の可能性を拡げていこうとしているのですから。

その人生に、「私」を発見できない、そのような暗く、重い、執着は、必要ありません。

純粋な、本来の私として生きていく幸福を味わうために、暗く、重い、執着は、完全に手放してしまいましょう。

そうして、持ったとしても、ウキウキ、ワクワクするような、前向きになれるような、意欲を持てるような、軽めの執着に留めておきましょう。

その明るさは、私への期待を肯定することです。

そこに、何度でも、本心で望む幸福は、訪れます。

その中に、「奇跡だ！」と、思わず叫んでしまうような、ピカピカの幸福も含まれているでしょう。

奇跡は、明るさを好みます。

奇跡は、明るさに宿ります。

人生、明るい方が、断然いいのです。

明るく生きていきましょう。

そうして、奇跡を何度でも、引き寄せましょう。

この仮説を、私は、実現していこうと思います。

皆様も、いかがですか？<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
私は、今、一つの仮説を大事にしています。<br /><br />それは、「奇跡」と呼ばれる、そうは簡単に起きない幸福は、実は、本来の私にもどれば、それは、もう奇跡ではなく、当たり前の幸福となり、それを得ることができる、というものです。<br /><br />つまり、私たちは、本来の私ではないので、人生に、なかなか奇跡は起きない、となります。<br /><br />そこで、奇跡と仲良くなるには、本来の私にもどる、ということが求められるでしょう。<br /><br />そのための一つとして、私は、「執着」という言葉を挙げます。<br /><br />悲壮感が漂うような、暗く思い詰めてしまうような、重い執着は、その先に期待している願望を、私にもたらすことはありません。<br /><br />その執着は、奇跡を、絶対と言ってよいほど、私に寄せ付けません。<br /><br />暗く、重い、執着に、自身が囲まれていては、人生に、幸福は、訪れないのです。<br /><br />それは、本来の私の姿、ではありません。<br /><br />私は、ここに、「私を生きる」ために、生まれてきたのですから。<br /><br />私は、ここに生まれて、「私」を実感し、「私」の可能性を拡げていこうとしているのですから。<br /><br />その人生に、「私」を発見できない、そのような暗く、重い、執着は、必要ありません。<br /><br />純粋な、本来の私として生きていく幸福を味わうために、暗く、重い、執着は、完全に手放してしまいましょう。<br /><br />そうして、持ったとしても、ウキウキ、ワクワクするような、前向きになれるような、意欲を持てるような、軽めの執着に留めておきましょう。<br /><br />その明るさは、私への期待を肯定することです。<br /><br />そこに、何度でも、本心で望む幸福は、訪れます。<br /><br />その中に、「奇跡だ！」と、思わず叫んでしまうような、ピカピカの幸福も含まれているでしょう。<br /><br />奇跡は、明るさを好みます。<br /><br />奇跡は、明るさに宿ります。<br /><br />人生、明るい方が、断然いいのです。<br /><br />明るく生きていきましょう。<br /><br />そうして、奇跡を何度でも、引き寄せましょう。<br /><br />この仮説を、私は、実現していこうと思います。<br /><br />皆様も、いかがですか？<a name="more"></a>

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            <category>シフトチェンジ</category>
      <author>Keiko.U</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521655383.html</link>
      <title>根拠が無い話も受け入れてほしい。</title>
      <pubDate>Tue, 06 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>何より、その双方を受け入れて、認められれば、今よりもっと気軽に、気楽に、この人生を歩めるだろうとも思うのです。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
私は、これまでの個人セッションで、何ら根拠の無い話ばかりをしてきました。

たとえば、その方の過去生を見るとします。

私は、過去生は、映像で感じるのですが、ほんとうに何も根拠など無く、何らかの景色や情景が見えてきます。

それを、「どうして、そんなものが出て来たのか？」、「果たして、その景色は、正しいのか？」、「その時代に、そんなものがあるのか？」などと、いちいち疑っては、その先に進めません。

ご相談者にお渡しする過去生の内容は、そこで、途切れてしまいます。

また、故人からのメッセージをお聴きする時も、何らかの景色が浮かんできます。

それは、その方が亡くなった場所、ということも多いのですが、それを疑っては、その方の声を受け取ることはできません。

つまり、私は、私の感じることを全面的に信じなければ、私の仕事は成立しない、となるのです。

また、少しでも、その私の感性を疑ってしまうと、そこに大きな苦悩が生じます。

それは、私が、私自身を信じられない、という苦しみです。

実は、私は、最初から、あっけらかんと、この感性を信じていたわけではありませんでした。

当初は、「ほんとうなの？」と、疑心暗鬼になることもありました。

私も、この世界に生きる人間で、世の中の常識、を意識して、暮らしているので、過去の時代の景色を、今の私が鮮明に見る、なんて、大丈夫なの、私？、頭、イカれてない？？、などと思う時もありました。

しかし、その疑いを少しでも持ってしまうと、その先にはまったく進めません。

浮かんでいた映像も、そこで遮断されてしまいます。

すると、仕事になりません。

私自身の過去生や、家族のそれも、映像とともに見て、そういう親しい人々と自分との関わりを物語る過去生も感じて、そこに、何らかの整合性を見い出したこと、また、その仕事を重ねていくことで、私は、自身を信じられるようになっていきました。

この世は、根拠のあるものに信を置きます。

そうではないものは、排除されやすいでしょう。

しかし、私のこういった話もあるのだな、と、ほんの少しでも受け入れていただけたら、根拠の無いものもあっていいのでは、と、なっていきやすいでしょう。

この世は、根拠の有るものと、無いもの、の両方がある、あっていい、と、思っていただければ、「私を信じる」ということへの抵抗は少なくなっていく、とも感じます。

何より、その双方を受け入れて、認められれば、今よりもっと気軽に、気楽に、この人生を歩めるだろうとも思うのです。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
私は、これまでの個人セッションで、何ら根拠の無い話ばかりをしてきました。<br /><br />たとえば、その方の過去生を見るとします。<br /><br />私は、過去生は、映像で感じるのですが、ほんとうに何も根拠など無く、何らかの景色や情景が見えてきます。<br /><br />それを、「どうして、そんなものが出て来たのか？」、「果たして、その景色は、正しいのか？」、「その時代に、そんなものがあるのか？」などと、いちいち疑っては、その先に進めません。<br /><br />ご相談者にお渡しする過去生の内容は、そこで、途切れてしまいます。<br /><br />また、故人からのメッセージをお聴きする時も、何らかの景色が浮かんできます。<br /><br />それは、その方が亡くなった場所、ということも多いのですが、それを疑っては、その方の声を受け取ることはできません。<br /><br />つまり、私は、私の感じることを全面的に信じなければ、私の仕事は成立しない、となるのです。<br /><br />また、少しでも、その私の感性を疑ってしまうと、そこに大きな苦悩が生じます。<br /><br />それは、私が、私自身を信じられない、という苦しみです。<br /><br />実は、私は、最初から、あっけらかんと、この感性を信じていたわけではありませんでした。<br /><br />当初は、「ほんとうなの？」と、疑心暗鬼になることもありました。<br /><br />私も、この世界に生きる人間で、世の中の常識、を意識して、暮らしているので、過去の時代の景色を、今の私が鮮明に見る、なんて、大丈夫なの、私？、頭、イカれてない？？、などと思う時もありました。<br /><br />しかし、その疑いを少しでも持ってしまうと、その先にはまったく進めません。<br /><br />浮かんでいた映像も、そこで遮断されてしまいます。<br /><br />すると、仕事になりません。<br /><br />私自身の過去生や、家族のそれも、映像とともに見て、そういう親しい人々と自分との関わりを物語る過去生も感じて、そこに、何らかの整合性を見い出したこと、また、その仕事を重ねていくことで、私は、自身を信じられるようになっていきました。<br /><br />この世は、根拠のあるものに信を置きます。<br /><br />そうではないものは、排除されやすいでしょう。<br /><br />しかし、私のこういった話もあるのだな、と、ほんの少しでも受け入れていただけたら、根拠の無いものもあっていいのでは、と、なっていきやすいでしょう。<br /><br />この世は、根拠の有るものと、無いもの、の両方がある、あっていい、と、思っていただければ、「私を信じる」ということへの抵抗は少なくなっていく、とも感じます。<br /><br />何より、その双方を受け入れて、認められれば、今よりもっと気軽に、気楽に、この人生を歩めるだろうとも思うのです。<a name="more"></a>

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            <category>仕事</category>
      <author>Keiko.U</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521633709.html</link>
      <title>「時間の無駄！」という「無駄な思考」を省きたい。</title>
      <pubDate>Mon, 05 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>人生は、そこでの経験で創られていく、と思います。その数が多いほど、豊かな人生でしょう。それは、無駄の多い人生、とも呼べるでしょう。今、”無駄”は、嫌われていますよね。時間の無駄、的なことは、極力避けようとする風潮が、現代でしょう。しかし、だからこそ、あえて、「無駄は必要」と申しましょう。無駄こそ、豊かさ、です。無駄こそ、人生の華やかな彩り、です。無駄、という人生の輝きは、何度でも、いつでも、私とは、何者？、という難問へ、的確で、味わい深い解答を寄せてくれます。すると、私の人生..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
人生は、そこでの経験で創られていく、と思います。

その数が多いほど、豊かな人生でしょう。

それは、無駄の多い人生、とも呼べるでしょう。

今、”無駄”は、嫌われていますよね。

時間の無駄、的なことは、極力避けようとする風潮が、現代でしょう。

しかし、だからこそ、あえて、「無駄は必要」と申しましょう。

無駄こそ、豊かさ、です。

無駄こそ、人生の華やかな彩り、です。

無駄、という人生の輝きは、何度でも、いつでも、私とは、何者？、という難問へ、的確で、味わい深い解答を寄せてくれます。

すると、私の人生に、無駄、と吐き捨てる経験は、一つも無い、となります。

すべてが、尊く、貴重な経験、です。

たとえ今、子育てで、自分の時間が無い、と嘆いていても、それは、後々の私の人生を太く支えてくれる、信頼できる経験です。

なかなかほんとうにやりたいことにたどり着けない、と、気持ちが沈んでいても、その、一見、無駄のような経験があるから、ほんとうにやりたいことが何かがわかる、という恵みもあるでしょう。

「ああ、これ、時間の無駄！」と思うことが、「無駄な思考」でしょう。

すべての経験は、尊いもの、貴重なもの、です。

人生で、一直線の変わらない、単調な景色ではなく、変わり行く、移り行く、さまざまな景色を見られる方が、ワクワクします。

ワクワクできる方が、意欲的に、前向きになれます。

時間の無駄、的なことはしない、という、無駄を省く生き方の方が、案外、単調で、つまらなく、結果、人生を楽しめない、となりやすいのではないでしょうか。

無駄を嫌う今だからこそ、無駄なこと＝面倒なこと、を、できるだけ多く、人生に引き入れて、色とりどりの、豊かな人生を歩みたいものです。

<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
人生は、そこでの経験で創られていく、と思います。<br /><br />その数が多いほど、豊かな人生でしょう。<br /><br />それは、無駄の多い人生、とも呼べるでしょう。<br /><br />今、”無駄”は、嫌われていますよね。<br /><br />時間の無駄、的なことは、極力避けようとする風潮が、現代でしょう。<br /><br />しかし、だからこそ、あえて、「無駄は必要」と申しましょう。<br /><br />無駄こそ、豊かさ、です。<br /><br />無駄こそ、人生の華やかな彩り、です。<br /><br />無駄、という人生の輝きは、何度でも、いつでも、私とは、何者？、という難問へ、的確で、味わい深い解答を寄せてくれます。<br /><br />すると、私の人生に、無駄、と吐き捨てる経験は、一つも無い、となります。<br /><br />すべてが、尊く、貴重な経験、です。<br /><br />たとえ今、子育てで、自分の時間が無い、と嘆いていても、それは、後々の私の人生を太く支えてくれる、信頼できる経験です。<br /><br />なかなかほんとうにやりたいことにたどり着けない、と、気持ちが沈んでいても、その、一見、無駄のような経験があるから、ほんとうにやりたいことが何かがわかる、という恵みもあるでしょう。<br /><br />「ああ、これ、時間の無駄！」と思うことが、「無駄な思考」でしょう。<br /><br />すべての経験は、尊いもの、貴重なもの、です。<br /><br />人生で、一直線の変わらない、単調な景色ではなく、変わり行く、移り行く、さまざまな景色を見られる方が、ワクワクします。<br /><br />ワクワクできる方が、意欲的に、前向きになれます。<br /><br />時間の無駄、的なことはしない、という、無駄を省く生き方の方が、案外、単調で、つまらなく、結果、人生を楽しめない、となりやすいのではないでしょうか。<br /><br />無駄を嫌う今だからこそ、無駄なこと＝面倒なこと、を、できるだけ多く、人生に引き入れて、色とりどりの、豊かな人生を歩みたいものです。<br /><br /><a name="more"></a>

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            <category>人生論</category>
      <author>Keiko.U</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521633602.html</link>
      <title>弱い人、強い人。</title>
      <pubDate>Sun, 04 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>その弱さが、尊いのです。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
人は、みな、弱いもの、です。

だから、身も心も強くなれるように、日々、鍛錬をした方が良いのでしょうか？

まあ、昔なら、強くなれ！、と、一見、強そうな人から、発破をかけられたでしょう。

そして、真面目な人は、そうなれるように、日々、精進、と、自身に言い聞かせていたでしょう。

しかし、今、私は、その弱さでいいんだよな、と、つくづく思います。

人は、弱いもの、弱くていいんですよ。

その弱さが、尊いのです。

その弱さがあるから、人生をていねいに学べるのです。

その弱さがあるから、他者との接触、交流を続けられるのです。

そして、そこから、自身を見つめ、数々の気づきが得られるのです。

それらを得て、人生に生かしていくことが、私の強さ、となっていきます。

人生とは、私の弱さを知って、そこから、私らしい強さ＝自信、を得ていくもの、でしょう。

そのプロセスを楽しむのが、我が人生、とも言えるでしょう。

最初から、強い人なんていません。

また、無理して、強くなろう、と、意気込むこともいりません。

今、私は、自身の弱さを見つめ、それを受け入れること、です。

その中で得られる、尊い気づきは、宝物です。

その宝物をこれからの私の人生に生かせる人が、”新・真・信・強い人”、と呼べるでしょう。
<a></a>

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人は、みな、弱いもの、です。<br /><br />だから、身も心も強くなれるように、日々、鍛錬をした方が良いのでしょうか？<br /><br />まあ、昔なら、強くなれ！、と、一見、強そうな人から、発破をかけられたでしょう。<br /><br />そして、真面目な人は、そうなれるように、日々、精進、と、自身に言い聞かせていたでしょう。<br /><br />しかし、今、私は、その弱さでいいんだよな、と、つくづく思います。<br /><br />人は、弱いもの、弱くていいんですよ。<br /><br />その弱さが、尊いのです。<br /><br />その弱さがあるから、人生をていねいに学べるのです。<br /><br />その弱さがあるから、他者との接触、交流を続けられるのです。<br /><br />そして、そこから、自身を見つめ、数々の気づきが得られるのです。<br /><br />それらを得て、人生に生かしていくことが、私の強さ、となっていきます。<br /><br />人生とは、私の弱さを知って、そこから、私らしい強さ＝自信、を得ていくもの、でしょう。<br /><br />そのプロセスを楽しむのが、我が人生、とも言えるでしょう。<br /><br />最初から、強い人なんていません。<br /><br />また、無理して、強くなろう、と、意気込むこともいりません。<br /><br />今、私は、自身の弱さを見つめ、それを受け入れること、です。<br /><br />その中で得られる、尊い気づきは、宝物です。<br /><br />その宝物をこれからの私の人生に生かせる人が、”新・真・信・強い人”、と呼べるでしょう。<br /><a name="more"></a>

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            <category>人生論</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521633602</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521620888.html</link>
      <title>「OK！作戦」開始！</title>
      <pubDate>Sat, 03 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>何も考えずに、とにかく「OK！」と言ってしまいましょう。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
結局、今、目の前に起きていることは、私自身が、事前に、「OK」を出したことなんだな、と思います。

嫌なことが起きたとしても、私自身が、それが起きることをOKして、受け入れたからなのかな、と思うのです。

一方、とても強く望んでいるのに、それが叶わないのは、私自身が、その成就をOKしていないから、と言えます。

それでは、なぜ、望んでいるのに、それにOKを出せないのか、ということですが、そこには、困惑、疑い、などの感情が横たわっているのでしょう。

分別のある、十分に大人の方々は、確かに、その希望が叶えば、バンザイ！、なのだけれど、ほんとうに、それは叶うのか？、という疑いを、持ちやすいのかもしれません。

あるいは、こんな私なのに、ほんとうにそれが叶ってしまってもいいの？、という謙虚な戸惑いも、そこにはあるのかもしれません。

すると、希望成就へ一直線のOKが出ていないので、その望みは、叶いにくい、となるのでしょう。

ならば、胸に抱く希望を叶えていくには、”OKを出せる人”になることです。

そう言うと、「そんなに簡単にOKなんて出せないよ」と、またまた、分別のある、十分に大人の方々は、思われるかもしれません。

その希望を精査してから、OKを出すか、どうか、を決めよう、などど考えるかもしれません。

その用心深さは、詐欺などに遭わない、安心、安全を、私にもたらせるかもしれませんが、それは、どうぞ、私の外側で起きることに、発揮していきましょう！

私の内側で抱く、純粋な希望の成就には、迷わず、OKを出してあげてほしいです。

そこに、大人の分別は、まったくいらないでしょう。

かくいう私も、なかなか疑い深い性格です。

しかし、残りの人生で、できるだけ希望を、夢を、願望を、叶えていきたい、と思っています。

そして、そのためには、何が必要か、どうすればよいのか、ということを、ここ数日、考えていました。

そこで、出た答えが、「OKを出そう！」というものでした。

ただ、単純に、何か、希望を持ったなら、間髪入れずに、「OK！」と言って、全面的に、それを受け入れてしまいましょう。

そこに、何も思考は挟まないことです。

何も考えずに、とにかく「OK！」と言ってしまいましょう。

その無邪気な承認で、叶えていく希望の数を増やし続けましょう。

私は、この「OK！作戦」を実行していきます！<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
結局、今、目の前に起きていることは、私自身が、事前に、「OK」を出したことなんだな、と思います。<br /><br />嫌なことが起きたとしても、私自身が、それが起きることをOKして、受け入れたからなのかな、と思うのです。<br /><br />一方、とても強く望んでいるのに、それが叶わないのは、私自身が、その成就をOKしていないから、と言えます。<br /><br />それでは、なぜ、望んでいるのに、それにOKを出せないのか、ということですが、そこには、困惑、疑い、などの感情が横たわっているのでしょう。<br /><br />分別のある、十分に大人の方々は、確かに、その希望が叶えば、バンザイ！、なのだけれど、ほんとうに、それは叶うのか？、という疑いを、持ちやすいのかもしれません。<br /><br />あるいは、こんな私なのに、ほんとうにそれが叶ってしまってもいいの？、という謙虚な戸惑いも、そこにはあるのかもしれません。<br /><br />すると、希望成就へ一直線のOKが出ていないので、その望みは、叶いにくい、となるのでしょう。<br /><br />ならば、胸に抱く希望を叶えていくには、”OKを出せる人”になることです。<br /><br />そう言うと、「そんなに簡単にOKなんて出せないよ」と、またまた、分別のある、十分に大人の方々は、思われるかもしれません。<br /><br />その希望を精査してから、OKを出すか、どうか、を決めよう、などど考えるかもしれません。<br /><br />その用心深さは、詐欺などに遭わない、安心、安全を、私にもたらせるかもしれませんが、それは、どうぞ、私の外側で起きることに、発揮していきましょう！<br /><br />私の内側で抱く、純粋な希望の成就には、迷わず、OKを出してあげてほしいです。<br /><br />そこに、大人の分別は、まったくいらないでしょう。<br /><br />かくいう私も、なかなか疑い深い性格です。<br /><br />しかし、残りの人生で、できるだけ希望を、夢を、願望を、叶えていきたい、と思っています。<br /><br />そして、そのためには、何が必要か、どうすればよいのか、ということを、ここ数日、考えていました。<br /><br />そこで、出た答えが、「OKを出そう！」というものでした。<br /><br />ただ、単純に、何か、希望を持ったなら、間髪入れずに、「OK！」と言って、全面的に、それを受け入れてしまいましょう。<br /><br />そこに、何も思考は挟まないことです。<br /><br />何も考えずに、とにかく「OK！」と言ってしまいましょう。<br /><br />その無邪気な承認で、叶えていく希望の数を増やし続けましょう。<br /><br />私は、この「OK！作戦」を実行していきます！<a name="more"></a>

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            <category>人生論</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521620888</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521611862.html</link>
      <title>過小評価を捨てて幸福を得る。</title>
      <pubDate>Fri, 02 Oct 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>その行き過ぎた過小評価は、果たして、その人を幸福にしたでしょうか。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
望みが叶う幸せを体験したいなら、絶対にやってはいけないことがあります。

それは、自身を「過少評価する」ということ、です。

たとえ他者が私をそのように評価したとしても、私が私をそのように低めてはなりません。

その評価は、私のこれからの可能性を閉じてしまいます。

私に下す過小評価は、私が求める幸福を、はじいてしまうような、小さい、小さい器、あるいは、口元がギュッと締まってしまった袋、です。

そこに、私の幸せは、どんなに求めても、入り込むことはありません。

私たちは、長らく、謙虚に生きることを美徳としてきました。

それは、社会に、他者に向けてのあるべき姿でした。

それを実行していくために、私たちは、自身を戒めて、厳しく私を管理しようとしてきました。

それが、”立派な人”、”見上げた人”、だったのです。

その姿勢は、自身を過大評価する、ことは、絶対にあってはならないと断罪し、うぬぼれは、言語道断、大いなる勘違い、と、吐き捨てていたでしょう。

自身のことを、たいしたことが無い、ちっぽけな人間と、見下すことが、他者から高評価されると信じていたでしょう。

その行き過ぎた過小評価は、果たして、その人を幸福にしたでしょうか。

果たして、その人は、人生を謳歌できたでしょうか。

ひるがえって、時代は、もうそこまで求めなくなっています。

確かに、私への他者の評価は、消えませんし、気になりますが、それが、重すぎる世の中、ということは無くなっています。

代わって、個人の自由が許されるようになりました。

その社会で、私は、私の幸福を求めることができます。

求めても良いのです。

ならば、大手を振って、求めていきましょう。

何度でも、いくつでも、私の幸福を手に入れていきましょう。

そのためには、もう自分を卑下する過小評価は、完全に捨て去りましょう。

自分にうぬぼれるくらいがちょうど良い、というくらいの、大きな気持ちで過ごしましょう。

過小評価を捨てて、過大評価くらいの大きな器を用意できれば、そこに、大小、さまざまな幸福が入ります。

お金も、私の価値を表します。

大きな器、口が大きく開いた袋を持つような、自身の高い、高い価値を肯定できれば、幸福の奇跡は、当たり前の方向です。

さあ、今から、ささやかでも、やってみたことなどを見逃さないで、その結果ではなく、その行動の一つ、一つを、「よくやったね」、「がんばったね」とほめてあげましょう。

そうして、人生の経験を積む私を肯定していきましょう。

それは、私の価値を高めていくことです。

”私”という唯一無二の存在の価値を、私自身が認めてあげて、高めてあげて、どんどん幸福を得ていきましょう。

輝かしい”奇跡”と友達になっていきましょう。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
望みが叶う幸せを体験したいなら、絶対にやってはいけないことがあります。<br /><br />それは、自身を「過少評価する」ということ、です。<br /><br />たとえ他者が私をそのように評価したとしても、私が私をそのように低めてはなりません。<br /><br />その評価は、私のこれからの可能性を閉じてしまいます。<br /><br />私に下す過小評価は、私が求める幸福を、はじいてしまうような、小さい、小さい器、あるいは、口元がギュッと締まってしまった袋、です。<br /><br />そこに、私の幸せは、どんなに求めても、入り込むことはありません。<br /><br />私たちは、長らく、謙虚に生きることを美徳としてきました。<br /><br />それは、社会に、他者に向けてのあるべき姿でした。<br /><br />それを実行していくために、私たちは、自身を戒めて、厳しく私を管理しようとしてきました。<br /><br />それが、”立派な人”、”見上げた人”、だったのです。<br /><br />その姿勢は、自身を過大評価する、ことは、絶対にあってはならないと断罪し、うぬぼれは、言語道断、大いなる勘違い、と、吐き捨てていたでしょう。<br /><br />自身のことを、たいしたことが無い、ちっぽけな人間と、見下すことが、他者から高評価されると信じていたでしょう。<br /><br />その行き過ぎた過小評価は、果たして、その人を幸福にしたでしょうか。<br /><br />果たして、その人は、人生を謳歌できたでしょうか。<br /><br />ひるがえって、時代は、もうそこまで求めなくなっています。<br /><br />確かに、私への他者の評価は、消えませんし、気になりますが、それが、重すぎる世の中、ということは無くなっています。<br /><br />代わって、個人の自由が許されるようになりました。<br /><br />その社会で、私は、私の幸福を求めることができます。<br /><br />求めても良いのです。<br /><br />ならば、大手を振って、求めていきましょう。<br /><br />何度でも、いくつでも、私の幸福を手に入れていきましょう。<br /><br />そのためには、もう自分を卑下する過小評価は、完全に捨て去りましょう。<br /><br />自分にうぬぼれるくらいがちょうど良い、というくらいの、大きな気持ちで過ごしましょう。<br /><br />過小評価を捨てて、過大評価くらいの大きな器を用意できれば、そこに、大小、さまざまな幸福が入ります。<br /><br />お金も、私の価値を表します。<br /><br />大きな器、口が大きく開いた袋を持つような、自身の高い、高い価値を肯定できれば、幸福の奇跡は、当たり前の方向です。<br /><br />さあ、今から、ささやかでも、やってみたことなどを見逃さないで、その結果ではなく、その行動の一つ、一つを、「よくやったね」、「がんばったね」とほめてあげましょう。<br /><br />そうして、人生の経験を積む私を肯定していきましょう。<br /><br />それは、私の価値を高めていくことです。<br /><br />”私”という唯一無二の存在の価値を、私自身が認めてあげて、高めてあげて、どんどん幸福を得ていきましょう。<br /><br />輝かしい”奇跡”と友達になっていきましょう。<a name="more"></a>

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            <category>人生論</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521611862</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521594708.html</link>
      <title>本望を叶えていく。</title>
      <pubDate>Wed, 30 Sep 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>アファーメーションを利用して、私の願望と向き合い、その中の本望を叶えていく人生といたしましょう。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
胸に抱く願望を叶えていくために、アファメーション（肯定的宣言）を唱えていく方法があります。

その理想形は、願望を軽く唱えたら、その結果は、天にお任せしておく、というものでしょう。

そのためには、あまりその宣言を唱えることに執着しない、ということでしょう。

しかし、私は、その理想形を最初から実行するのは難しいな、無理にそうしなくてもいいのだな、と思うようになりました。

それでは、まず、アファメーションを作ったら、どうすればよいか、ということですが、それを好きなだけ口に出して良いのです。

それを、あまり言わない方がいい、執着しない方がいい、と、我慢してしまうと、それらはストレスとなってしまい、その願望成就の妨げとなってしまいます。

アファーメーションを作成した最初の頃は、ウキウキした期待と、果たして、その願望が叶うかどうか、不安になってしまう傾向もあるでしょう。

そのため、その不安を打ち消そうと、何度も、それを唱えてしまうかもしれません。

それなら、それで良いのです。

思いのまま、実行していきましょう。

すると、やがて、その不安は小さくなって、そのアファーメーションを唱える回数は、少なくなるかもしれません。

唱える回数が減っても、そこに安心が宿るおだやかさがあるのなら、その願いの成就をだんだんと天に預けるようになっていっている、と言えるでしょう。

その時間の流れの中で、唱え続けたアファーメーションは、だんだんと私の体に馴染み、沁み込んでいるでしょう。

その後、そのアファーメーションは、現実化していくことが当たり前、となっていきます。

一方、思いのまま、アファーメーションを唱え続けているうちに、だんだんと、その言葉を口にしなくなっていくのは、その願望が、その時の私の本望ではないから、とも言えます。

本望ではないものを、自身の体に馴染ませる、沁み込ませることに抵抗が出てくるので、その宣言を口にしなくなっていく、ということです。

それなら、それで良いのです。

その願望は、捨てて良いもの、と判断できます。

そのように、願望成就を、素直に宣言していくことで、その時々の私の本望に気づけます。

そのためにアファーメーションはあると言えます。

そして、アファーメーションを唱えることは、その時の私と向き合うことでもあります。

向き合って、私の心の中を観察できます。

アファーメーションを利用して、私の願望と向き合い、その中の本望を叶えていく人生といたしましょう。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
胸に抱く願望を叶えていくために、アファメーション（肯定的宣言）を唱えていく方法があります。<br /><br />その理想形は、願望を軽く唱えたら、その結果は、天にお任せしておく、というものでしょう。<br /><br />そのためには、あまりその宣言を唱えることに執着しない、ということでしょう。<br /><br />しかし、私は、その理想形を最初から実行するのは難しいな、無理にそうしなくてもいいのだな、と思うようになりました。<br /><br />それでは、まず、アファメーションを作ったら、どうすればよいか、ということですが、それを好きなだけ口に出して良いのです。<br /><br />それを、あまり言わない方がいい、執着しない方がいい、と、我慢してしまうと、それらはストレスとなってしまい、その願望成就の妨げとなってしまいます。<br /><br />アファーメーションを作成した最初の頃は、ウキウキした期待と、果たして、その願望が叶うかどうか、不安になってしまう傾向もあるでしょう。<br /><br />そのため、その不安を打ち消そうと、何度も、それを唱えてしまうかもしれません。<br /><br />それなら、それで良いのです。<br /><br />思いのまま、実行していきましょう。<br /><br />すると、やがて、その不安は小さくなって、そのアファーメーションを唱える回数は、少なくなるかもしれません。<br /><br />唱える回数が減っても、そこに安心が宿るおだやかさがあるのなら、その願いの成就をだんだんと天に預けるようになっていっている、と言えるでしょう。<br /><br />その時間の流れの中で、唱え続けたアファーメーションは、だんだんと私の体に馴染み、沁み込んでいるでしょう。<br /><br />その後、そのアファーメーションは、現実化していくことが当たり前、となっていきます。<br /><br />一方、思いのまま、アファーメーションを唱え続けているうちに、だんだんと、その言葉を口にしなくなっていくのは、その願望が、その時の私の本望ではないから、とも言えます。<br /><br />本望ではないものを、自身の体に馴染ませる、沁み込ませることに抵抗が出てくるので、その宣言を口にしなくなっていく、ということです。<br /><br />それなら、それで良いのです。<br /><br />その願望は、捨てて良いもの、と判断できます。<br /><br />そのように、願望成就を、素直に宣言していくことで、その時々の私の本望に気づけます。<br /><br />そのためにアファーメーションはあると言えます。<br /><br />そして、アファーメーションを唱えることは、その時の私と向き合うことでもあります。<br /><br />向き合って、私の心の中を観察できます。<br /><br />アファーメーションを利用して、私の願望と向き合い、その中の本望を叶えていく人生といたしましょう。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>人生論</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521594708</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521566657.html</link>
      <title>人生のチャレンジ。</title>
      <pubDate>Tue, 29 Sep 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>そこで、新しい時代に即した生き方の変容を促していくことが、今を生きる私たちの役目でしょう。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521566508.html?1791613985" target="_blank">昨日</a>、記した内容は、まさに、私の人生のチャレンジ、です。

これまでの私が、根拠に乏しい願望をそのまま受け入れにくいのは、親からの教育が主因でしょう。

戦中育ちの両親は、この国の敗戦、という、すざましい歴史を体験してきました。

その親たちは、敗戦、という大きすぎる自信喪失と、それまでとは１８０度ひっくり返ってしまった、世の中の価値観に翻弄されて、目に見える確かなもの、に、信を置くようになったのではないか、と推察します。

また、急ピッチで進められていった経済復興、成長のために、皆が団結をして、同じ方へ向いて、泣き言を吐くことも許されずに、頑張っていったのでしょう。

その世代を親に持った私は、その親の価値観で育てられました。

現実的なものを信じ、根拠を求め、多少、つらいことがあっても、泣き言を吐かず、他者との競争に勝っていくこと、が、人生の正しい道、と示されました。

そこには、空想的な、バカげた願望など、入り込む余地は無かったでしょう。

また、私がつらいのなら、周りのみんなも、つらいはず、と、私一人だけが楽しい、うれしいことの方へ進んでいくのは、ずるい生き方、のように感じていたかもしれません。

親が子どもの私に、よく言っていました。

「額に汗して働くことだ！」。

「働かざる者、食うべからず！」と。

そこに、空想の願望を叶えていくような快楽は、入り込めなかったでしょう。

その当時の人々の臥薪嘗胆的な、大いなる頑張りがあったからこそ、現在の豊かな幸福があります。

そこに感謝を忘れることはありません。

しかし、時代は進みました。

そこで、新しい時代に即した生き方の変容を促していくことが、今を生きる私たちの役目でしょう。

それは、胸に抱く願望を、一つも否定せず、消滅もさぜずに、ウキウキ、ワクワクしながら、軽快に、自らが叶えていくこと、でしょう。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521566508.html?1791613985" target="_blank">昨日</a>、記した内容は、まさに、私の人生のチャレンジ、です。<br /><br />これまでの私が、根拠に乏しい願望をそのまま受け入れにくいのは、親からの教育が主因でしょう。<br /><br />戦中育ちの両親は、この国の敗戦、という、すざましい歴史を体験してきました。<br /><br />その親たちは、敗戦、という大きすぎる自信喪失と、それまでとは１８０度ひっくり返ってしまった、世の中の価値観に翻弄されて、目に見える確かなもの、に、信を置くようになったのではないか、と推察します。<br /><br />また、急ピッチで進められていった経済復興、成長のために、皆が団結をして、同じ方へ向いて、泣き言を吐くことも許されずに、頑張っていったのでしょう。<br /><br />その世代を親に持った私は、その親の価値観で育てられました。<br /><br />現実的なものを信じ、根拠を求め、多少、つらいことがあっても、泣き言を吐かず、他者との競争に勝っていくこと、が、人生の正しい道、と示されました。<br /><br />そこには、空想的な、バカげた願望など、入り込む余地は無かったでしょう。<br /><br />また、私がつらいのなら、周りのみんなも、つらいはず、と、私一人だけが楽しい、うれしいことの方へ進んでいくのは、ずるい生き方、のように感じていたかもしれません。<br /><br />親が子どもの私に、よく言っていました。<br /><br />「額に汗して働くことだ！」。<br /><br />「働かざる者、食うべからず！」と。<br /><br />そこに、空想の願望を叶えていくような快楽は、入り込めなかったでしょう。<br /><br />その当時の人々の臥薪嘗胆的な、大いなる頑張りがあったからこそ、現在の豊かな幸福があります。<br /><br />そこに感謝を忘れることはありません。<br /><br />しかし、時代は進みました。<br /><br />そこで、新しい時代に即した生き方の変容を促していくことが、今を生きる私たちの役目でしょう。<br /><br />それは、胸に抱く願望を、一つも否定せず、消滅もさぜずに、ウキウキ、ワクワクしながら、軽快に、自らが叶えていくこと、でしょう。<a name="more"></a>

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            <category>シフトチェンジ</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521566657</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521566508.html</link>
      <title>人生を一新する。</title>
      <pubDate>Mon, 28 Sep 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>その結果が楽しみです。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
最近、私は、実行しようと決めたことがあります。

それは、根拠のまるで無い、能天気な願いを抱いたら、それに、「いいね！」と賛同してあげようというものです。

これまでの私は、そういったウキウキするような願望を持っても、そのまま受け入れるのではなく、最終的に、どこか否定していました。

「そんなこと、あるわけない」とか、「まあ、夢だよね～」などと、冷静になって、やがて、それを消し去っていました。

すると、その願いは、そこで、叶うことなく潰えてしまいます。

きっと、これまでは、それらの積み重ねで、人生の願望は、叶わないもの、というレッテルが貼られてしまっていたのでしょう。

おそらく多くの人々が、そうではないでしょうか？

心に浮かぶ願望が、次々と叶っていく人は、果たしているのでしょうか？

多くの人々が、まじめで、常識があって、自己に厳しく、思慮深く、冷静で、そして、悲観的で、不安を持っている、のではないでしょうか？

その誠実な人々の願望が、叶わない世の中は、味気無く、つまらないですよね。

生きている喜びが感じられません。

そこで、私は、その正反対の方へ進んでみることにしました。

常識で自分を縛りません。

根拠など気にせずに、突拍子も無い、空想の願望を抱いたら、それをそのまま受け入れようと思います。

そして、それに対して、「いいね！！」と言ってあげます。

その後、否定は、絶対にしません。

その時のウキウキ、ワクワクした気持ちのまま、それを天にお預けしておきます。

そうして、自らが消滅させていない願望たちとともに、気楽に、明るく生きていこうと思います。

その結果が楽しみです。

皆様も、そういう生き方をしてみませんか？

その生き方の実践で、願望を叶えていく人々が増えていけば、人生への向かい方は、見事に一新されるでしょう。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
最近、私は、実行しようと決めたことがあります。<br /><br />それは、根拠のまるで無い、能天気な願いを抱いたら、それに、「いいね！」と賛同してあげようというものです。<br /><br />これまでの私は、そういったウキウキするような願望を持っても、そのまま受け入れるのではなく、最終的に、どこか否定していました。<br /><br />「そんなこと、あるわけない」とか、「まあ、夢だよね～」などと、冷静になって、やがて、それを消し去っていました。<br /><br />すると、その願いは、そこで、叶うことなく潰えてしまいます。<br /><br />きっと、これまでは、それらの積み重ねで、人生の願望は、叶わないもの、というレッテルが貼られてしまっていたのでしょう。<br /><br />おそらく多くの人々が、そうではないでしょうか？<br /><br />心に浮かぶ願望が、次々と叶っていく人は、果たしているのでしょうか？<br /><br />多くの人々が、まじめで、常識があって、自己に厳しく、思慮深く、冷静で、そして、悲観的で、不安を持っている、のではないでしょうか？<br /><br />その誠実な人々の願望が、叶わない世の中は、味気無く、つまらないですよね。<br /><br />生きている喜びが感じられません。<br /><br />そこで、私は、その正反対の方へ進んでみることにしました。<br /><br />常識で自分を縛りません。<br /><br />根拠など気にせずに、突拍子も無い、空想の願望を抱いたら、それをそのまま受け入れようと思います。<br /><br />そして、それに対して、「いいね！！」と言ってあげます。<br /><br />その後、否定は、絶対にしません。<br /><br />その時のウキウキ、ワクワクした気持ちのまま、それを天にお預けしておきます。<br /><br />そうして、自らが消滅させていない願望たちとともに、気楽に、明るく生きていこうと思います。<br /><br />その結果が楽しみです。<br /><br />皆様も、そういう生き方をしてみませんか？<br /><br />その生き方の実践で、願望を叶えていく人々が増えていけば、人生への向かい方は、見事に一新されるでしょう。<a name="more"></a>

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]]></content:encoded>
            <category>シフトチェンジ</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521566508</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://ushiodakeiko.seesaa.net/article/521548639.html</link>
      <title>現実世界とスピリチュアルな世界を結びたい。</title>
      <pubDate>Sun, 27 Sep 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
            <description>その両方の世界を語るのが、私の仕事かな、とも感じています。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
「スピリチュアルな話って、何も根拠の無い、いい加減な話でしょ？」と、思われているかもしれません。

「なんだか、それを語る人って、空元気で、能天気な感じがして、信じられない」と、言われることもあるでしょう。

だから、そんな嘘っぽい、非現実的な世界には、近づくだけ、時間の無駄、と、切り捨てられてしまうことも多いでしょう。

冒頭から、いきなり「スピリチュアル」について書き出しましたが、今、このブログに私が記していることは、現実の世界でもあり、スピリチュアルな内容でもある、と思っています。

そして、スピリチュアルな世界は、確かに、確固たる根拠は見当たりませんが、日々、論理的な根拠、エビデンスを求められる現実世界で、息苦しさを感じているのなら、ほんの少しでも、このいい加減な、フワフワとした、スピリチュアルな領域に入りこんでみるのも、悪くはないのではないか、と、ご提案いたします。

その両方の世界を語るのが、私の仕事かな、とも感じています。

日々、まじめに生きている、良識のある方々が、いきなり、元気で、恐ろしく明るい、能天気なスピリチュアルな領域に、何も疑いを持たずに、簡単に入り込むことは、不可能でしょう。

そのような方々が、根拠がまるで無い、スピリチュアルな領域に、無理にでも入り込もうとすると、そこに、苦悩や迷い、自己への大きな不信を抱いてしまうでしょう。

それでも、それらと付き合いながら、もがきながら、やがて、そのおびえる私を全面的に受け入れて、その領域に思い切って入ってみると、そこで、これまでの私とは全く異なる、未知の、まっさらな私と出逢うでしょう。

今、この世界で、何も苦悩も、迷いも、自己不信も抱かずに、あっけらかんと、ただ明るく、スピリチュアルな世界に生きている人など存在しません。

もし、そういう人がいる、というのなら、その人は、もはや人間ではないでしょう。

現実は、明るくなれないから、明るくなりましょう、と言うのです。

ネガティブシンキングばかりだから、ポジティブシンキング！、と言われるです。

宇宙と一体の私を信じましょう、と言うのは、現実的に、そんなこと、感じたことなんてない、感じられない、からでしょう。

だから、スピリチュアルなんて、嘘っぽくて、やばいもの、となってしまうのでしょうけれど、現実世界があるならば、その嘘っぽい、やばい世界もあってもいいのかもしれません。

現実世界で、生きにくく、自分が一体何をしたいのかが見つからない、自身を信じる、とは、一体どういうことなのか、さっぱりわからない、といった苦しみを抱えているのなら、その世界の他に、そこと正反対の、何も根拠が無い、スピリチュアルな世界の存在も「あっていい」と認めてあげることでしょう。

すると、その苦しみの果てに、ふと、そのフワフワした世界へ、私は、入り込むかもしれません。

そして、第六感とかいう、何だか意味のわからないものが、ある時、ピピッーーー、と働いて、もがいていた難問への答えをサラッと連れてくるかもしれません。

ここに生きていくことは、苦、です。

私たちは、ここで、現実と向き合うことは避けられません。

現実からは逃げられません。

スピリチュアルな世界は、そこから遠く離れたところに、ただお気楽に、現実の苦の世界をあざ笑うように、フワフワと浮いているのではありません。

現実世界も、スピリチュアルな世界も、車の両輪、です。

私は、苦がつきまとう、この現実世界に足をしっかりとつけながら、そこで一所懸命に生きる人々に、この世界と密接なスピリチュアルな世界への自由な往来について、これからも記していこうと思っています。

ロジカルな根拠を求められる、この世界と、無根拠の、つかみどころの無い、スピリチュアルな世界との橋渡しができればいいな、と、現実世界での苦悩を抱え続ける私は、願っています。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
「スピリチュアルな話って、何も根拠の無い、いい加減な話でしょ？」と、思われているかもしれません。<br /><br />「なんだか、それを語る人って、空元気で、能天気な感じがして、信じられない」と、言われることもあるでしょう。<br /><br />だから、そんな嘘っぽい、非現実的な世界には、近づくだけ、時間の無駄、と、切り捨てられてしまうことも多いでしょう。<br /><br />冒頭から、いきなり「スピリチュアル」について書き出しましたが、今、このブログに私が記していることは、現実の世界でもあり、スピリチュアルな内容でもある、と思っています。<br /><br />そして、スピリチュアルな世界は、確かに、確固たる根拠は見当たりませんが、日々、論理的な根拠、エビデンスを求められる現実世界で、息苦しさを感じているのなら、ほんの少しでも、このいい加減な、フワフワとした、スピリチュアルな領域に入りこんでみるのも、悪くはないのではないか、と、ご提案いたします。<br /><br />その両方の世界を語るのが、私の仕事かな、とも感じています。<br /><br />日々、まじめに生きている、良識のある方々が、いきなり、元気で、恐ろしく明るい、能天気なスピリチュアルな領域に、何も疑いを持たずに、簡単に入り込むことは、不可能でしょう。<br /><br />そのような方々が、根拠がまるで無い、スピリチュアルな領域に、無理にでも入り込もうとすると、そこに、苦悩や迷い、自己への大きな不信を抱いてしまうでしょう。<br /><br />それでも、それらと付き合いながら、もがきながら、やがて、そのおびえる私を全面的に受け入れて、その領域に思い切って入ってみると、そこで、これまでの私とは全く異なる、未知の、まっさらな私と出逢うでしょう。<br /><br />今、この世界で、何も苦悩も、迷いも、自己不信も抱かずに、あっけらかんと、ただ明るく、スピリチュアルな世界に生きている人など存在しません。<br /><br />もし、そういう人がいる、というのなら、その人は、もはや人間ではないでしょう。<br /><br />現実は、明るくなれないから、明るくなりましょう、と言うのです。<br /><br />ネガティブシンキングばかりだから、ポジティブシンキング！、と言われるです。<br /><br />宇宙と一体の私を信じましょう、と言うのは、現実的に、そんなこと、感じたことなんてない、感じられない、からでしょう。<br /><br />だから、スピリチュアルなんて、嘘っぽくて、やばいもの、となってしまうのでしょうけれど、現実世界があるならば、その嘘っぽい、やばい世界もあってもいいのかもしれません。<br /><br />現実世界で、生きにくく、自分が一体何をしたいのかが見つからない、自身を信じる、とは、一体どういうことなのか、さっぱりわからない、といった苦しみを抱えているのなら、その世界の他に、そこと正反対の、何も根拠が無い、スピリチュアルな世界の存在も「あっていい」と認めてあげることでしょう。<br /><br />すると、その苦しみの果てに、ふと、そのフワフワした世界へ、私は、入り込むかもしれません。<br /><br />そして、第六感とかいう、何だか意味のわからないものが、ある時、ピピッーーー、と働いて、もがいていた難問への答えをサラッと連れてくるかもしれません。<br /><br />ここに生きていくことは、苦、です。<br /><br />私たちは、ここで、現実と向き合うことは避けられません。<br /><br />現実からは逃げられません。<br /><br />スピリチュアルな世界は、そこから遠く離れたところに、ただお気楽に、現実の苦の世界をあざ笑うように、フワフワと浮いているのではありません。<br /><br />現実世界も、スピリチュアルな世界も、車の両輪、です。<br /><br />私は、苦がつきまとう、この現実世界に足をしっかりとつけながら、そこで一所懸命に生きる人々に、この世界と密接なスピリチュアルな世界への自由な往来について、これからも記していこうと思っています。<br /><br />ロジカルな根拠を求められる、この世界と、無根拠の、つかみどころの無い、スピリチュアルな世界との橋渡しができればいいな、と、現実世界での苦悩を抱え続ける私は、願っています。<a name="more"></a>

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            <category>仕事</category>
      <author>Keiko.U</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,ushiodakeiko/521548639</guid>
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